2009年07月02日

九州大学はキャンパスの狭隘さ・老朽化に加え

九州大学はキャンパスの狭隘さ・老朽化に加え、箱崎キャンパスは福岡空港に近いうえ滑走路延長線上に位置するために航空機が発する騒音公害にさらされており、移転が計画されてきた。1970年代には筑紫キャンパス(春日市、大野城市)への全面移転が計画されたが、実現しなかった。その後新たに計画が策定され、平成17年度(2005年度)[5]後期から10年間をかけて、箱崎、六本松キャンパスの設備・組織を福岡市西区の元岡地区に移動することが決定した。
首都圏の大学が軒並み都心への回帰を進めているのに対しこれは逆行する動きではとする意見もある。だが国立大学である九州大学は教育機関であると共に研究機関としての役割を重く担っており、施設を充実させ、これにより優れた業績を出していく必要があり、学生の利便性を最優先する私立の大学とは異なる戦略をとるのは致し方ないとする意見もある。これに対し同じく国立の東京大学は一部の理系学部(主に工学系・理学系の大学院)は交通の不便な千葉県柏に一部のキャンパスを移転させて、一部の理系学部・文系学部は本郷や駒場に留まるというそれぞれの学部に適したキャンパスの配置を進めており、九州大学もこれに倣い文系学部は都心部に留まるべきとする意見もある。
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福岡市西区、前原市、志摩町にまたがる里山に新キャンパス(伊都キャンパス)を建設し、そこに九州大学を移転する計画。2005年10月から3回にわけて移転し、最終的な移転完了は2019年を予定している。当初は大学病院の移転も検討されたが、病院が現在より交通の不便な土地に移ることは利用者の利便性を損なうという観点から、馬出地区(病院および医学部・歯学部・薬学部)は移転しない。これはキャンパスの郊外移転に伴って医学部、歯学部の全面移転を実行し不評だった大阪大学の失敗を教訓としている。また、旧九州芸術工科大学である芸術工学部も移転計画が策定されたのが両大学の合併前だったためか移転の対象からは外れており、現在の大橋キャンパスにとどまる。

2009年06月13日

重力を記述する一般相対性理論と物質のミクロな

重力を記述する一般相対性理論と物質のミクロな振る舞いを記述する量子力学の折り合いをつけた理論(量子重力理論)の構築というのは物理学者を悩ませていた大問題であるが、超弦理論はそれを解決する可能性をもった理論である。

超弦理論には五つの種類があり、それぞれI型、IIA、IIB、ヘテロSO(32),ヘテロE8×E8と呼ばれる。この五つの超弦理論は理論の整合性のため10次元時空が必要である。通常の3次元に時間を加えた4次元に加えて、残りの6次元は量子レベルで巻き上げられていて小さなエネルギーでは観測できないとされる。また、11次元超重力理論をその低エネルギー極限に含んだM理論は更に1次元を加えて合計11次元を必要とする。これら6つの理論はさまざまな双対性によって互いに繋がっている。

弦の振動は、量子レベルで巻き上げられている6次元により制約を受け、その振動の形により、特定の量子を形作っている。超弦理論では基本的物体は一次元の弦であったが、M理論では加えられたもう1次元によって基本的物体は2次元の膜であると提唱されている。

また超弦理論で表記される10次元中にはDブレーンと呼ばれる様々な次元の拡がりを持ったソリトンが存在する。Dブレーンはもともと一次元の弦が端点を持ちうる空間として定義されているものだが、重力子等の閉じた弦はこの空間に依存せずにブレーン間を往来する。


超弦理論は重力の量子論の有力な候補であり、現時点でも特殊な条件の下でならブラックホールのエントロピーに関する問題に答えられる。ブラックホールのエントロピーは表面積に比例しているが、この事実をDブレーンに張り付いた弦の状態を数え上げる、という方法で導き出している。これは熱力学のエントロピーを統計力学の手法で導き出すことに対応している。
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ブレーン描像を宇宙論に適用した理論は、ブレーンワールドと呼ばれ、典型的な模型では我々はこのブレーンの上に住んでいることになる。またこのモデルでは、量子力学で使われる3つの力に対して、何故重力が極端に弱いのかを説明がつけられるとしている。つまり、本来他の3つの力、即ち、電磁気力(電磁力ともいう)、弱い力、強い力に比較して弱いのは、他の次元にその大半が逃げてしまっているためと考えられる。

これに関連して、例えば宇宙論のインフレーションをブレーンの運動で捉えるなど、様々な研究がなされている。なお、ビッグバンは我々の存在する宇宙が所属する膜と他の膜の接触によるエネルギーが原因で起こったとするモデルもあり、エキピロティック宇宙論と呼ばれている。通常のインフレーションを導出しようとする試みも進行中である。

2009年06月09日

中国医学の針など、最近では迷信と信じられたいくつかの

中国医学の針など、最近では迷信と信じられたいくつかの代替医療の効果が医学的に証明されるにいたってその一部が病院での医療に取り込まれだしている。日本、韓国、中国などでは正規の病院で漢方薬が処方される。アメリカでも10を超える州で医学的に効果の証明されたものには保険が適用されている。ただしレイキ、ホメオパシーなど現在でもその効用が実証されていないものは除外されている。
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1992年、国民の利用関心を背景としてアメリカ国立衛生研究所(NIH)に、アメリカ国立補完代替医療センター(NCCAM)が設置された。 当初の年間予算は200万ドルであったが、現在では1億ドル以上の予算が割り当てられている[1]。 全米の医科大学・医学ラボ等での代替医療研究を振り分け、政府予算も割り当てられている。2000年には、ホワイトハウスに補完代替医療政策委員会が設置される。代替医療の教育について、全米の医学生が少なくともひとつの代替医療を並行して学べる体制を各医学部が備えていることが望ましいとして、国立衛生研究所では公式に推奨している。そのような代替医療教育体制は全米の医科大学の50%以上で既に実施されている。1998年の段階でも、全米125医学校中75校が非西洋医療の講座・単位を持つようになっていた。医学生の側も80%余りが代替医療を身に着けたいとアンケートに答えている。

ジョージタウン大学は代替医療教育において初めて正規課程(修士課程)を定めた学校であり、国立衛生研究所が目と鼻の先にあることもあり、多くの代替医学研究がされている。また、アリゾナ大学の医学教授アンドルー・ワイルにより西洋医学による医療と代替医療とをあわせた統合医療が教育実践されている。

食事療法や健康食品の使用についても、特定の疾患では注意した上で容認するというガイドラインがある[1]。食事療法や健康食品のような分野は代替医療の中でも研究が行われにくいために、エビデンスが少ないと報告されている

2009年04月25日

セルジューク朝

セルジューク朝(アラビア語 : al-Salājiqa, ペルシア語 :Saljūqiyān)は、11世紀から12世紀にかけて現在のイラン、イラク、トルクメニスタンを中心に存在したイスラム王朝。(大セルジューク朝 1038年 - 1157年、最後の地方政権のルーム・セルジューク朝は1308年に滅亡)。

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テュルク(トルコ)系遊牧民の君長セルジュークを始祖とする一族、セルジューク家に率いられた遊牧集団により建国された。この遊牧集団を一般にセルジューク族というが、セルジューク族という語にあたる原語セルジューキヤーンは、「セルジューク家に従う者たち」という程度の意味で、全てが血縁的結合をもった部族集団というわけではなく、セルジューク家のもとに結集した様々な集団の集合体というべきものである。セルジューク族のトルコ国家という意味からかつては「セルジュークトルコ」や「セルジュークトルコ帝国」、「セルジューク朝トルコ帝国」という呼称がしばしば用いられたが、現在はセルジューク朝と呼ぶのが一般的である。セルジュークはテュルク語による人名をアラビア文字で記したもの( Saljūq/Seljūq )をペルシア語風に発音したかたちで、元来のテュルク語ではセルチュク(Sälčük/Selčük)といった。

王朝の遠祖セルジュークは、オグズ族のクヌク氏族(qiniq/qïnïq)に属するテュルク系遊牧集団(部族)の君長であった(セルジューク朝時代の資料では、むしろ『シャーナーメ』などのイラン世界伝統の歴史観に基づいて、古代のトゥーラーンの王アフラースィアーブの後裔を名乗る場合が多く見られる)。10世紀後半頃にセルジュークらの遊牧集団はアラル海の北方から中央アジアに入り、アラル海東方のジャンド(現カザフスタン領)から南の砂漠地帯あたりに定着して遊牧生活を送りながらイスラム教に改宗した。このように遊牧生活を守りながらイスラムへと改宗したテュルク系遊牧部族のことをペルシア語でトゥルクマーンという。

10世紀の末にセルジュークの子らはさらに南下してトランスオクシアナ(現ウズベキスタン・タジキスタン)に入り、サーマーン朝に仕えて勢力を蓄えた。セルジュークの子のひとり、イスラーイールは、11世紀初頭に配下のトゥルクマーン4000家族とともにさらにアム川を南渡してガズナ朝のマフムードに仕えたが、その実力を恐れたマフムードによって幽閉されたほどであった。しかし、イスラーイールの没落によってトゥルクマーンの統制は失われ、アム川以南のホラーサーン地方(現トルクメニスタン)には多くのトゥルクマーンが流入して徒党を組んだトゥルクマーンによる定住民の略奪が行われるようになった。

一方、トランスオクシアナに残ったイスラーイールの甥、トゥグリル・ベグをリーダーとするセルジュークの子と孫たちは、サーマーン朝を滅ぼしてトランスオクシアナを支配したカラハン朝と対立して1035年にアム川を渡り、1038年にニーシャープール(現イラン東北部)に無血入城して、その支配者に迎えられた。この事件がセルジューク朝の建国とされる。トゥグリル・ベグ兄弟はホラーサーンのトゥルクマーンを統御して軍事力を高め、1040年にはガズナ朝の軍を破ってホラーサーンの支配を固めた。

トゥグリル・ベグは1042年にはアム川下流のホラズム(現ウズベキスタン西部)を占領し、1050年にはイラン高原に転進してイスファハーンを取り、イランの大部分を手中に収めた。また、スルタン(スルターン)の称号をこの頃から称し始めた。

スンナ派のムスリム(イスラム教徒)であるトゥグリル・ベグは、バグダードにいるアッバース朝のカリフに書簡を送って忠誠を誓い、スンナ派信仰の擁護者としてシーア派に脅かされるおそれのあるカリフを救い出すために、イラン・イラクを支配してカリフを庇護下に置くシーア派王朝ブワイフ朝を討つ大義名分を獲得した。1055年、バグダードのカリフから招きを受けたトゥグリル・ベグはバグダードに入城し、カリフから正式にスルタンの称号を授与された。同時にカリフの居都であるバグダードにおいて、スルタンの名が支配者として金曜礼拝のフトバに詠まれ、貨幣に刻まれることが命ぜられ、スルタンという称号がイスラム世界において公式の称号として初めて認められた。

2009年04月08日

日本でのディスコの歴史

1960年代-1970年代 [編集]
日本では1960年代にオープンした渋谷の「クレイジースポット」や新宿の「ジ・アザー」が最初とする説がある。しかし一般的には1968年に赤坂に出来た「ムゲン」「ビブロス」がディスコの走りといわれている。当時、生バンド演奏にあわせてダンスを踊るゴーゴークラブやゴーゴー喫茶が流行しており、ゴーゴーガール目当てに通う者もいたが、それらの店とは一線を画して主に芸能人やモデル、富裕層や外国人客を主な客層としたことで、一気に時代を先んじた存在に上りつめた。当時の「ムゲン」は、川端康成や三島由紀夫、三宅一生などの時代の先端を行くそうそうたるメンバーで賑わっていたという。この頃は生バンドとレコードの両立だったのが、1971年六本木にオープンした「メビウス」が日本で最初にレコードのみで営業した。これは生バンドの人件費を抑える為におこなった行為だったが、結果としては現在のディスコやクラブと同じくレコードのみのスタイルとなっている。

その後、ジョン・トラボルタ主演の映画「サタデー・ナイト・フィーバー」(1977年)が大ヒットし、新宿、渋谷、上野、池袋などの繁華街に多数のディスコが開業し、夜遊びの趨勢は完全にディスコに移った。大勢の「ディスコでフィバる」(熱狂すること。現在では死語)若者を生んだ。

1978年-1982年 [編集]
1970年代終わりから1980年代初めにかけては、ディスコの定番音楽となる名曲が数多く生まれた時代でもある。ABBAやBee Gees、Chic、Boys Town Gangなどが歌うこれらの曲は、後にはディスコクラシックと分類され、根強いファンを持つようになった。(西城秀樹が青春歌謡ポップス曲「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」としてカバーしたヴィレッジ・ピープルのヒット曲「Y.M.C.A.」などは、球場等で流れ、応援ソングになっている。2006年現在)

また、この時期には、YMOのもたらしたテクノブームが新宿のディスコにも多大な影響を与え、一時期はテクノカットと呼ばれる、YMO風にもみ上げを水平にカットした散切り頭に、JUNやROPEのモノトーンスーツがフロアのダンサーの大半を占める潮流もあった。また後には、マッドネス、スペシャルズなどのツートンスカもやや流行った。

この頃の日本では、新宿の「ツバキハウス」、「ワンプラスワン」、上野の「ブラックシープ」、浅草の「シャトー」などが有名であったが、1982年、中学3年生の少女がディスコの帰りに殺害される「新宿ディスコ殺人事件(未解決。97年時効成立)」が起こったことから、深夜営業の禁止・未成年者の入店規制など取締りが強化され、新宿のディスコは衰退した。

原宿の歩行者天国(ホコ天)でラジカセを囲み奇抜な衣装で踊る竹の子族が流行ったのもこの頃である。

1980年代前半(サーファーディスコブーム) [編集]
この頃のディスコブームを象徴するのが六本木スクエアビルである。地下2階から10階までの1Fと4Fを除く全てのフロアがディスコになった。中でもNASAグループの「ネペンタ」「ギゼ」、六本木「エリア」の前身である日拓系列の「マジック」が有名である。六本木スクエアビル以外では、伝説的な存在となった六本木「キサナドゥ」、外人顧客が中心の老舗「レキシントンクイーン」などが、JJ誌やFine誌などの雑誌メディアに紹介された。新宿ディスコでは「ゼノン」でお馴染みのジョイパックグループの渋谷「ラ・スカーラ」が人気店となった。これらディスコに共通するのがサーファーブームに乗った「サーファーディスコ」である。そしてこの頃のディスコの主役はなんといっても女子大生であった。田中康夫の「なんとなく、クリスタル」や深夜番組「オールナイトフジ」が大きな影響力を及ぼした時期であった。ファッションはスポーツ系のブランド服を基本としてレイヤードのヘアースタイルが特徴である。具体的には、女子高生を中心に流行したデイバックのキーホルダーアクセサリや、ファーラのパンツ、裏地アロハ、ペインターパンツなどが例に挙げられる。六本木を震源地に広がったサーファーディスコブームであったが、当時の流行偏差値の高かった六本木地域から、徐々に渋谷、新宿と偏差値の低い地域に文化が移転するにあたり、大衆化が進み、そのパワーは次第に廃れていった。新宿の「PUKA PUKA」はそんなサーファーディスコの最後の砦であったが、ブームの終焉から、次の世代の新たな文化の兆しを生み出す貴重な店舗であったとも言える。

そして一大ブームを起こしたサーファーディスコもカフェバーやプールバーの人気と共に終焉を迎え、ひと時のディスコの冬の時代が訪れる。

バブル経済期(高級ディスコブーム) [編集]
代わって1980年代中期から六本木周辺では、比較的大規模で豪華な内装を売り物にした高級ディスコが隆盛し、全国展開したNOVA21グループの麻布十番「マハラジャ」、青山「キング&クイーン」やパチンコ業界で有名な日拓系列の六本木「エリア」「シパンゴ」などが人気店になった。六本木周辺では「マハ・エリ時代」、全国的には「マハラジャ全盛時代」と呼ばれた。また大和実業グループの日比谷「ラジオシティ」はOL・サラリーマン専門ディスコで、男性はドレスコードによりスーツ・ネクタイ着用の上、身分証明書(社員証)を提示しないと入店できない店であり、一流企業の社章を着け店内で名刺を配るバブル世代の男性サラリーマンの光景がよく見られた。

これらの店は内装に数億円掛け大理石や真鍮を使用した豪華絢爛な店内、コンサートホール並みの音響や照明機器、女性の踊りがより目立つためにお立ち台を設置、一般席と区別したガラス張りVIPルームの併設、従業員によるホテル並みの丁寧なサービス、本格的なシェフを迎えての高級レストラン並みの料理、来場者の男性同士の入店拒否やジーンズ不可などの服装チェック、店の雰囲気にふさわしくない客の入店拒否(規制)を行い、高級感と非現実空間を出すことで従来のディスコとの差別化を図り、新たな客層を獲得していったバブリーディスコである。

このような高級ディスコはモデル並みのイケメン従業員に化粧をさせ、階級別に色分けされた派手な制服を着てアイドル並みに振舞うウェイターやDJを目当てに女性客が押し寄せる。また黒服(役職付き従業員)がモデルや常連女性客に入店のフリーパスやサービスドリンクを振舞うなどの優遇措置を取り、ダンスフロア入口近くのLV席(レディースVIP席)に座らせたりお立ち台で踊らせて目立ちさせ、入店してきた男性客にいい女がいっぱいいる店と錯覚させる手段をとっていた。そうした女性客を目当てに集まった男性客から高額な入場料(当時4000?5000円)やVIPルームチャージ料を取るといったいわゆる「花のある所に蝶が集まる」商法が当時の高級ディスコの集客システムであった。

この高級ディスコブームにより多くの高校生(一部の「お坊ちゃん校」、「お嬢さま校」の生徒を除く)や10代は「子供」としてドレスコードで締め出され、新宿や渋谷などの一般大衆ディスコでしか遊ぶことができなくなった。そのおかげで六本木周辺などのディスコは大人が安心して遊べる社交場となり、それまでのディスコとは不良が集まる場所といったイメージを一新させ、一般の人達がお洒落して行く流行の発信スポットとして認知されるようになった。こういった高級指向は、当時のバブル景気下の若者のセンスにもマッチしていた。

初期は女性のファッションはDCブランドが中心で「ピンキー&ダイアン」「ロペ」「ジュンコシマダ」などのボディコンやスーツにエルメスのスカーフやシャネルのチェーンベルトを巻きワンレンやロングソバージュにクリスチャン・ディオールの「プアゾン」をつけるのが定番スタイルで、男性は「コム・デ・ギャルソン」「ワイズ」「アーストンボラージュ」などのDCブランドスーツにシャネルの「アンテウス」をつけるのが人気だった。ちなみにディスコで「ジョルジオ・アルマーニ」などのイタリア系ブランドスーツが流行るのは1980年代後半から1990年代前半になる。

また、この頃には都内の大学生イベント系サークルが開催するディスコの貸切パーティーが盛んになり大学などでパー券をさばく光景がよく見られ、多くのディスコにとって良い収入源となった。それらの学生には「カレッジカード」と称される割引カードが配られていた。この頃の学生達に人気があったのが三倶グループの渋谷「J トリップバー」。この「J トリップバー」は苗場のスキー場にも出店した。

1980年代中期からのディスコの曲は、よりポップス調を強める一方で、デッド・オア・アライブ、リック・アストリー、カイリー・ミノーグ、バナナラマに代表されるストック・エイトキン・ウオーターマン(PWLサウンド)によるプロデュース作品や、マイケル・フォーチュナティなどのイタリアからのユーロビートに代表されるような、コンピュータを用いた打ち込み系の音楽が多く使用され始めるようになる。日本の歌謡曲に似たメロディータッチに単調なリズムとビートを強調した超アップテンポなこれらの曲が日本人にマッチし大人気となり、これがいわゆる第一次ユーロビートブームで邦楽でも荻野目洋子、BaBe、Winkなどがユーロビートの曲をカバーし大ヒットする。そしてこのユーロビートから生まれた振り付けダンスがパラパラである。

しかし1988年、鳴り物入りで登場したばかりの六本木「トゥーリア」で、電動で上下する巨大照明装置が吹き抜けの天井から落下し死亡者3名負傷者14名を出す事故が発生し、高級ディスコブームは終息を迎えた。

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2009年03月24日

試験車としての63系

国鉄は1947年(昭和22年)以降、電車に関する新技術の開発に次々と取り組んだ。しかし、その当時に生産が行われていた国鉄電車は63系1系列のみであり、メーカーから続々と送り出される63系電車は、新しい技術の試験用車両としても利用されることになった。

台車
63系の標準的な台車は当初、戦前からの鉄道省標準型である鋳鋼製軸箱部と型鋼による側枠を組み合わせたペンシルバニア形軸ばね式台車のDT12(TR25)であった[6]。

太平洋戦争後、国内のベアリング工業が軍需から民需に転換したのを機に、鉄道業界にもローラーベアリングの導入が図られる。これには起動抵抗や車軸の発熱を減少させ、メンテナンス性を改善できるメリットがあった[7]。これに際し、DT12のプレーンベアリングをローラーベアリングに変更したDT13が開発される。以後このタイプが63系の標準台車となった。

また、一部のモハ63形には試験的に、扶桑金属(旧・住友製鋼所、現在の住友金属工業)製の鋳鋼台車が用いられた。ウイングバネ式のDT14[8]と、軸バネ式のDT15があったが、両者は多くの部品を共用している。DT15は、80系電車に用いられた高速型台車であるDT16の原型となった。

主電動機 [編集]
当初、戦前からの標準型であるMT30[9]を搭載したが、1948年(昭和23年)頃から改良型のMT40を経てMT40A・B[10]に移行している。これらは端子電圧差[11]を考慮するとMT30とほとんど差がないが、軸受にローラーベアリングを採用し、独立した冷却ダクトを持つMT40の方が、ロングランや過負荷へのゆとりがあった。のちに主電動機をMT30からMT40に交換した車両もあり、これによって捻出されたMT30で戦前型国電の出力増強が為された事例もあった。

MT40系はその後、80系電車、70系電車、72系電車の各系列にも用いられ、湘南電車の、ひいては電車列車の時代の到来の原動力となった。国鉄電車用の釣り掛け駆動主電動機の最後を飾った、優秀なモーターである。

パンタグラフ [編集]
パンタグラフについては、戦前と同等のトラス構造を用いた良質な標準型であったPS11はほとんど用いられず、戦中新たに開発された簡易型であるPS13が搭載された。内側にトラスのない枠だけのラーメン構造で、下半分の部材には通常の鋼管を使わず、鋼板を折り曲げて部材を構成していた。

主軸のベアリングを平軸受とするなど極端に簡素化した粗末な構造で、当初は強度不足による歪みも頻発した。しかし、架線への追随性能に大きな問題はなく、広範に用いられた。旧形電車はもとより、新性能電車といわれる101系電車や151系電車の初期製造グループでさえ、登場当初にはこのパンタグラフを搭載していたほどである[12]。

制御装置 [編集]
63系は、戦前からの標準型であった電空カム軸制御器[13]のCS5を搭載していた。しかし一部の63系は、構造が簡素で軽量となった試作電動カム軸制御器のテストに用いられた。この結果、電動カム軸式のCS10が正式に採用され、80系や72系などに搭載された。このCS10では直並列切り替え時に牽引力の低下がほぼ発生しない「橋絡わたり」接続が国鉄電車用制式制御器では初めて採用[14]され、加速時の衝動低減に大きな効果を発揮した。

ジュラルミン電車 [編集]
1946年に、川崎車輌(現在の川崎重工業)で作られた63系のうち6両(モハ63900?902、サハ78200?202)が、外板をジュラルミン張りに変更して製作された。これは日本で初めて軽合金製外板を車体に用いた電車である。終戦による航空機需要の途絶により、航空機用材料のジュラルミンが余っていたことから試験的に製作されたものであるが、骨組みは普通鋼を用いている。なお、これらは内装材にもジュラルミンを使用していた(床板と荷物棚は木製、座席は布張り)。

外観は溶接構造ではなく戦前型電車のようなリベット留め[15]とし、クリアーの塗料を塗っただけの銀色で、アクセントに細い緑帯が入った。照明に蛍光灯を試験採用したため車内も明るく、「ジュラ電」と呼ばれて注目を集めた。[1]

しかし、もともと腐食しやすいジュラルミン[16]に加え、他の63系同様に粗悪な絶縁素材を使っていたために電装品からの漏電による電蝕症状が進行し、数年程度使った時点で車体が著しく劣化した[17]。このため1950年には車体の塗装が施されたものの、1954年(昭和29年)に、72系への形式再編に際し、72系全金属化の試作も兼ねて6両とも試作全金属形車体(普通鋼外板)に改造された。

63系電車の私鉄導入 [編集]
太平洋戦争中の酷使や戦災の結果、多数の電車が損耗し、一方で買い出し客を中心に輸送需要が増加したことで、戦後の私鉄各社は著しい輸送力不足に苦しんだ。

1946年から、運輸省(鉄道軌道統制会。のち鉄道車輌統制会)の統制の下、大手私鉄に運輸省標準型電車としてモハ63形を割当供給し、その代わりに中小型車を地方中小私鉄に譲渡(供出)させることになった。その際、モハ63形電車の割当てを受けたのは東武鉄道、東京急行電鉄(小田原線→現・小田急電鉄、厚木線→現・相模鉄道)、名古屋鉄道、近畿日本鉄道(南海線→現・南海電気鉄道)、山陽電気鉄道の各社線[18]で、1948年までに合計120両が統制会の手を通じて各社に供給された。

統制会を通して割り当てられた63形電車は、名目上、国鉄が一括発注し、各私鉄に割り当てる形をとったため国鉄番号を持つが、国鉄に車籍編入されたことはない。それ以外に直接私鉄が発注し、国鉄番号のない車両が計4両あった。

東武鉄道 
統制会より40両の割り当てを受け(内2両は国鉄番号なし)、6300系(1952年に7300系に改称)の呼称を与えられる。のち名古屋鉄道から14両譲受。1959年(昭和34年)以降新造車体への載せ替え改造を受けた。
東京急行電鉄 
統制会より20両が割り当てられ[19]、1800形となり、小田原線(→小田急電鉄)に14両、厚木線(→相模鉄道)に6両が投入された。厚木線配置の車両が相模鉄道に移籍したのち、名古屋鉄道から6両を譲受した。1957年以降内外装の張り替え工事を受けて形態を一新、のち秩父鉄道に譲渡され800形として使用されたが、1990年までに廃車されている。
名古屋鉄道 
統制会より20両が割り当てられ、3700系(初代)となるも、名古屋本線に当時存在した急カーブ(枇杷島橋梁付近)が通過できず、運行可能な区間に制約(栄生以東に限定)があったため十分に活用できなかった。この結果、従来車の車両限界に合わせた運輸省規格型車両の割当て(3800系20両。1954年までに71両新製)を優先的に受けて、その見返りとして1948年に同車を東武鉄道(14両)と小田急電鉄(6両)へ譲渡した。なお、名鉄線に独自の20m4扉車が登場したのはそれから30年以上も後の1979年(地下鉄乗入れ車)のことであり、本線系では未だに20m4扉車を使用していない。
近畿日本鉄道 
統制会より20両が割り当てられた。後に全て南海電鉄に承継され、モハ1501形となった。全車近畿車輛製で、自社の親会社への納入ということで、社章と凝った造りのシャンデリア風の車内灯が装備され(63系は通常裸電球装備である)、通風器も63形標準のグローブ型ではなくガーランド型2列とするなどの特別仕様となった。600Vの大電流に対応し、また在来車との混用の必要性から通常のCS5ではなく、ALF単位スイッチ制御器を装備した。1959年以降、一部が制御車に改造され、使用機器が1521系とED5201形電気機関車に引き継がれている。また、貫通幌が付けられた車両もある。晩年は、本線の各停や天王寺支線、多奈川支線の運行に使われた。現在は全車廃車となっている。
山陽電気鉄道
統制会から20両が割り当てられた。63系唯一の標準軌仕様。初期車6両は剥き出しの天井のままであったが、それ以降の14両は天井にジュラルミン板を張って納入され、原番号が63800番台であったことから800形800?819となる(のち700形700?719に改称)。当時の山陽電鉄には神戸市内に併用軌道区間(路面走行区間)があり、本形式も1968年(昭和43年)の神戸高速鉄道開業まで道路上を走行した。20m級の大型電車が併用軌道を走行したのは前代未聞のケース[20]であった。のち1957年(昭和32年)の西代車庫火災による焼損をきっかけとした車体新造による2700形への更新、もしくはその構体を生かしたままでの更新改造を受けたが、現在ではいずれも全車廃車となっている。
63系は、当時日本最大級の電車の一つであった。が、上記の私鉄各社の内、戦前から63系同等の大型・大出力電車を導入していたのは南海のみで、その他の鉄道は、導入路線の地上施設の規格向上(カーブの緩和、プラットホーム幅削減や障害物撤去、架線電圧の昇圧、あるいは変電所の増強など)を行わなければ63系を走らせることができなかった。

低規格路線の多かった名古屋鉄道は早期に63系の使用を断念したが、その他各社は苦心の末に63系を走行させる条件を整えた。その結果、著しい輸送力増強が実現されることになる。

特に63系の大量導入で実績を上げた東武鉄道は、1953年(昭和28年)に63系(7300系)同様の4ドア20m車体を持つ大型通勤電車7800系(当初7330系)を開発する。これは1961年(昭和36年)までに164両も製作されて、高度成長期初期の通勤輸送の主力となった。以後東武鉄道では、主力通勤電車は20m4ドア車体を基本とするようになる。

また小田急・南海では1960年代以降本格的に20m4扉車体の通勤電車を開発し、以後主力とした。

結果として63系電車の私鉄割り当ては、ラッシュ輸送における「扉数の多い大型電車」の優位性を各鉄道会社に認識させるきっかけとなったと言える。また、63系が走行可能となった路線では同様な大型電車が容易に運転可能となり、長期的に見ても輸送力増強に大きくプラスとなった。もっとも、戦災で在籍車を多数喪ったために窮余の策として本形式を受け入れた山陽電鉄は、63系では明らかに輸送力過大であり、以後多扉20m車を導入していない[21]。

また、間接的に63系を導入することになった鉄道会社としては、以下の各社がある。

西武鉄道 - 1953年に63系の事故廃車3両を国鉄から譲受、1956年(昭和31年)に同一仕様1両を自社製造。詳細は西武401系電車を参照。
相模鉄道 - 太平洋戦争後の一時期、東急小田原線に運行委託していた経緯から、小田急経由で7両を譲受した。これらは3000系の一部となり、のちに車体更新が実施された。また、7両のうち1両は事故車であった。
この2社も20m級の大型電車が入線可能となり、西武鉄道は1957年(昭和32年)から20m3扉車体の電車を標準とした。相模鉄道では1961年以降、また西武鉄道は1977年(昭和52年)以降、いずれも20m4扉車体の電車を主力にするようになった。

このような経緯もあり、20m・片側4扉構造の車体は、国鉄(JR)のみならず大手私鉄通勤電車の標準構造となっている。

なお、これ以外に1948年には、三井三池炭鉱専用鉄道(福岡県大牟田市・熊本県荒尾市)に63形と同形の通勤客車が5両(ホハ201?205)投入された。専用線車両であるため炭鉱関係者・家族の通勤通学輸送に限定され、一般営業運転には用いられなかったが、長期に渡って原形を保ち、1980年代に至っても、更新改造以前の63系に酷似した形態を残した貴重な存在であった。1984年(昭和59年)、従業員輸送が廃止になるまで使用された。

秋日和 プレス タンポポ ダブル マイケル ビーカー ナリラ フェア ストリ テロメ シャープ オール シャッポ ゆりはま ユーアー フレア トルク リリシ マルチ ソファ ウテルス みこも コデマリ ノータッチ ヘルパー ミョウガ シビア ゼッケン プラー フィンランド 仙人掌 ゲル対策 美の気配 スタッカー ヌートリア パンサー グロビン かいづか プロポョン スイング オステ ノール おのいし お座敷 パラッツ ゆとう シナモン フットケア サポーター バスターズ


2009年03月08日

炭鉱(たんこう、coal mine)

炭鉱(たんこう、coal mine)とは、石炭を掘り出すための鉱山のこと。

なお、炭鉱は石炭または亜炭を掘り出す鉱山そのものを指すが、しばしば同じ読みで炭砿(旧字体では炭礦)とも表記される。石炭は金属ではなく、その採掘地を金属鉱山とは呼べないため、漢字の偏が「金偏」ではなく「石偏」となるのが正しいという理由である。

現在世界において石炭産出量の多い国は中国、ロシア、アメリカなどである。大規模な炭鉱は炭田とも呼ばれ、中国の大同炭田、萍郷炭田などのほか、アメリカのアパラチア炭田、ロッキー炭田、ロシアのカラガンダ炭田、クズネツク炭田、ウクライナのドネツ炭田などが大規模であり、他にインドのダモダル炭田、ポーランドのシロンスク炭田、日本での輸入が多いオーストラリアのモウラ炭田などが有名である。その中で古くから産炭地として知られたが、矮小な規模や設備の老朽化などに伴い、産業革命と共に発展を歩んだイギリスのランカシャー、ヨークシャー地方、ウェールズ地方、ドイツのルール地方、ザール地方、チェコのボヘミア地方などは規模を縮小し、閉山を余儀なくされたケースも多い。一方、ベトナムのホンゲイ炭田のように中小規模でも、高品質の石炭を産出することで稼働を続ける炭田も存在する。

日本では製鉄産業及び石炭化学工業、または蒸気機関車の隆盛と共に石炭産業が興隆した。最盛期には石狩炭田、釧路炭田、常磐炭田、三池炭田、筑豊炭田などの大規模な炭田を中心に、留萌炭田、釧路炭田、天北炭田、西彼杵炭田、唐津炭田、大嶺炭田、天草炭田、北松炭田、糟屋炭田など800以上の炭鉱があったが、後に安価な輸入品に押され、加えて石油へのエネルギー革命を転機に、多くの中小炭鉱が岐路に立たされ、姿を消していった。
ノーメーク ジェルカン かじぼう スリナ ひこぼ ビオトープ マイクナキ フルーツ カラー ロッキー スイン ナナカマ けいは でんと ノクラス あみだ ジャン ストーン いかりがせ ハーモニー オーリ シングル キッザニ ガポド キック ヤード ダン アップテロ トリガー タフタ ムチン キューテ タイゲーム ハーフアド ききょう リズム でんでん イーグル ディルド オーラオン スケート ラッシ フルート 時の舟 セラック キープ モノクロ デリック フリーラ ブラック

筑豊炭田はかなり大規模であったが、当時はほとんど良質の瀝青炭を掘り尽くしていたため品質の悪いものしか残っていないことが災いし、加えて施設の老朽化なども進んだため1975年までに500近くに上った全ての炭鉱が姿を消した。

石狩炭田はスクラップアンドビルドを打ち出し、最新鋭技術の集積、高収益体制を行うなど効率化を図ったが、鉄鋼不況によるコークス販売不振や一向に減らなかった炭鉱事故(後述)がとどめを刺し、1980年代に全てが閉山を遂げた。

三池炭田は品質の優れた瀝青炭が中心であり、最新鋭の技術を投じたため上述2炭田より長く保ったものの、依然として輸入品より高額であり、国が火力発電所の燃料としての買い上げを打ち切ると、1997年に閉山に追い込まれた。また、九州で唯一残った池島炭鉱も2001年で幕を下ろした。

結果、坑道掘りでは太平洋炭礦を引き継いだ釧路コールマイン以外すべて閉山した。露天掘りでは、砂子組が砂子炭坑三笠露天掘坑(三笠市奔別鳥居沢町)で採掘し北海道電力へ納入している他、数社が露天掘りをおこなっている。

沿革
人類に於ける石炭の使用は2000年前に遡るともいわれるが、本格的な世界での炭鉱開発は18世紀に入ってからである。近世に入るまでは鉄を精錬するのに木炭を原料としていたが、嵩張る燃料費や大がかりな設備への使用は適せず、急騰する需要に追いつかなかった。しかし、1612年に英国のスタードバントが石炭を原料としたコークスを使った製鉄法を発明、後にダッドリー、ダービーらが改良を加え、鉄の大量生産に成功した。それに伴って炭鉱開発も発展を遂げるようになる。また、英国では後に産業革命が勃興し、紡績工場の動力として蒸気機関が用いられるようになり、その動力源として石炭が重宝されるようになった。また、その後は石炭ガスの利用により、石炭を多種の化学物質を抽出したりする石炭化学が発展を遂げた。

したがって炭鉱の歴史は、石炭需要の拡大に並行しているといえる。以下に述べる採掘方法の発展や都市の発展もこれに比例するものである。

2009年02月20日

ガミラス帝国

ガミラス帝国(-ていこく)は、『宇宙戦艦ヤマト』に登場する、架空の種族による星間帝国。地球人類に対する敵対勢力。
ブロース フィンガ チボウ ハロゲン アゴニスト リバタ シェル ハーフ あまおう スカム シャーク ステコミ ジャブ ブレー スリー フィッシュ ポプラ ロユリ ランブル さとち マリン マンディー プラク ヒール ルノー リスト ドオオ ヒット ダンス にしなり ブール マレー ビアン ハイタッチ デッキ エイド タグ最強 ホップ ラッチ サブリ ジェイリ タバスコ ワンダン ステーキ 恋人たち プレス オフィス レイシズ とまや バージャケ

国家元首はデスラー総統、副総統はヒス。首都はバレラス。本星ガミラスはイスカンダルとの二重惑星である。ガミラス大帝星と称する場合がある。

劇中では民間人の存在が確認できず、登場するのは軍人のほかに総統府や司令部に勤める女性のみであり、軍事に関連した習俗しか確認できない。

かなり機械文明に依存しており、自分の身体を使った労働という観念が存在しないようで[1]、ヤマト乗組員がデスラー機雷を人力で排除した行動を「野蛮人の素朴な発想」と評した。

政治体制
帝国主義国家でデスラーを総統として仰ぐ独裁政治体制を採っている。ガミラスでは財政や外交を担当する組織(第16話に登場する、惑星第8タックス部)等に軍人が従事しており、劇中に文官的存在が確認できないことから、軍事独裁政権と考えられる。

総統は、絶対的な権力を持っており、直属の親衛隊が存在する。ヤマト撃滅に手間取るシュルツは、デスラー総統の「親衛隊を送ろうか」の台詞に怯える描写がある(第9話)。また駄洒落を発した将軍を「下品な部下いらない」と処刑(第11話)、軍法会議による死刑判決の決まったドメル将軍を、ヤマトに対抗できる将軍が他にいないと判決を破棄(第21話)、ヤマトとの和平交渉を進言したヒスを射殺(第24話)、など絶対的な権力を持っている。

銀河系核恒星系のガルマン民族の一支族が長い恒星間旅行の末、大マゼラン星雲サンザー太陽系に到達し、第8番惑星にガミラスを建国した。二重惑星のイスカンダルとは友好関係を結び、その進んだ技術を取り入れていったが、イスカンダルの精神文明は伝播しなかった。

対外的に発展する志向が強く侵略艦隊を派遣、西暦2190年代には、大マゼラン、小マゼラン星雲に及ぶ一大星間帝国を形成する。

ガミラス本星が惑星の寿命を終えようとしていたため、移住先として地球を対象に選び、冥王星からの遊星爆弾による攻撃で地球を放射性物質で汚染し人類滅亡させる移住計画を企てる。

西暦2199年(デスラー紀元103年)、冥王星宙域での地球防衛艦隊への勝利により地球征服を目前にしていたが、イスカンダルのスターシャの協力を得た地球人が建造した宇宙戦艦ヤマトの反撃を受け、徐々に戦線を後退させる。

西暦2200年、七色星団の戦いでドメル将軍が敗北した後、急速に滅亡への道を辿る。

同年、ガミラス本星での戦いにおいて、敗色濃厚の中でヒス副総統がヤマトとの和平を進言するが、デスラー総統はそれを退け、ガミラス帝国は滅亡する。

ガミラス本星を脱出したデスラー総統は、白色彗星帝国に亡命し、ズォーダー大帝と同盟を結び、ヤマトへの復讐を狙うが、戦いの中、ヤマトの艦長代理、古代進の間に奇妙な友情が芽生え、白色彗星攻略のヒントを与え、大マゼラン星雲に去っていく。

その後、第2のガミラスとなる惑星を探しの途上、ガミラス星に立ち寄ったデスラーは、暗黒星団帝国と戦闘状態になる。この戦闘で本星であるガミラスは消滅する。ヤマトとの共同戦線でこれを撃退。その後も第2のガミラスとなる惑星を探し流浪の旅を続ける。

23世紀初頭に、小マゼラン方面軍の残存艦隊を率いて、銀河系核恒星系のガルマン民族をボラー連邦の圧制から解放。ガルマン・ガミラス帝国を建国する。

ガミラス軍
ガミラス軍人は敗北を恥辱と考える傾向があり、敗色が濃厚になると生還の可能性の無い体当たり攻撃を厭わない。指揮官が最後の決断を下した場合、部下も従容として運命を共にする(シュルツとガンツ、ドメルとゲールなど)。これは、デスラーと祖国への忠誠心と同時に敗北は死をもって償わされることによると推定される。冥王星基地を失い、艦隊を率いてシュルツは脱出するが、「戦って死ね。」との総統命令で進退きわまる。「ヤマトの波動砲で全滅するなら死をもって栄光を。これがガミラス軍人の運命。」と語り、体当たり攻撃を敢行する。ドメルは「祖国の命運を懸けた決戦でヤマトをこれ以上進ませる訳にいかない。」との覚悟の行動を取っている。

最高の栄誉はデスラー総統から直接授与されるデスラー勲章を得ることである。

また、武勇を尊ぶため、敵であっても優れた武人には敬意を払って共感する一面もある(ドメルと沖田十三、デスラーと古代進など)。

軍事行動において、テクノロジーを駆使した兵器とそれを利用したトラップを多様する傾向がある。磁力を応用した兵器(超磁力バリヤー、宇宙要塞13号、マグネット発振機など)は、ガミラス軍の特有の兵器である。

主要人物
デスラー 総統
ヒス 副総統
タラン 大マゼラン星雲防衛総司令官
シュルツ 冥王星最前線基地 司令官
ガンツ 冥王星最前線基地 副司令官
ドメル 銀河系方面軍作戦 司令長官 (元、小マゼラン方面軍作戦司令長官)
ゲール 銀河系方面軍作戦 副司令官 (元、銀河系方面軍作戦司令長官)

所有艦船
デスラー艦
ガミラス艦
駆逐型デストロイヤー艦
駆逐型ミサイル艦
高速巡洋型クルーザー
新型駆逐艦
シュルツ艦
高速空母
三段空母
戦闘空母(後に、デスラー戦闘空母として登場する)
ドメラーズ2世
ドメラーズ3世
タンカー・ロケット
バラノドン運搬船
病院船
『宇宙戦艦ヤマト』第14話にのみ登場し、外観はガミラス艦と似ている。オクトパス星団で足止めしていたヤマトの前に1隻が偶然現れ、オクトパス星団の抜け道を知るヒントを与えることになった。なお、古代は攻撃するように進言するが、沖田は「戦艦ではない」として見逃している。

航空機・宇宙艇
円盤型パトロール艇
高速偵察機
高速宇宙空母搭載艇
偵察機(仮称)
ガミラス戦闘機
ゲール艇
ドメル式DMF-3型高速戦闘機
ドメル式DMB-87型急降下爆撃機
ドメル式DMT-97型雷撃機
重爆撃機

陸上兵器・地上部隊
宇宙重戦車
沿岸爆雷砲台
ガミラス星内部の硫酸の海の沿岸に設置されていた3連装の砲台。『宇宙戦艦ヤマト』23~24話で、硫酸の雨の中を飛行するヤマトに爆雷を降らせた。

海中兵器
潜水艇
冥王星基地の海底ドックに配備されていた一人乗りの小型艇。ガミラス戦闘機に似たような外観を持ち、機首先端に魚雷発射菅を1門持つ。編隊を組んで海に沈んだヤマトにとどめを刺そうとするが、艦首ミサイルによって壊滅した模様。

生物兵器
ガス生命体
『宇宙戦艦ヤマト』12話登場。人工的に生み出された黒い煙状の生命体で、時折身体に赤い稲妻が走る。あらゆる物質のエネルギーを取り込んで成長する。デスラー曰く「ちょっとした思い付きで作った」。オリオン座前線基地に配備され、ヤマトを追尾し、真田志郎は「金属腐食ガス」と断定した。物質を取り込もうとする性質が災いして、アルファ星で燃え尽きる。
バラノドン
バラン星の原住生物。カメとカブトガニを掛け合わせたような姿をしており、身体は赤色で大きな鱗がある。性質は大人しく、元々バラン星に太陽がなかったため、目は退化している。また、宇宙航行能力がある。『宇宙戦艦ヤマト』17話にて、ゲールにより対ヤマト兵器に調教され、大量の固体が隊形を組み、ヤマトに襲い掛かるが、波動砲によって消滅した。同作20話で、ドメルはバラノドンをわざと虐殺させてヤマトの乗組員に正義感を煽り、バラン星基地を攻撃するように仕向けた。バラン星基地崩壊後、1匹が研究資料用としてヤマトに持ち帰られた。
金属腐食性バクテリア(宇宙ボタル)
『宇宙戦艦ヤマト2』11~12話登場。「宇宙ボタル」の別名のように発光するが、しばらくすると消えてしまう。バンデベルの指揮によって宇宙空間にばら撒かれ、ホームシック気味の新人乗組員が癒しを求めて艦内に持ち帰らせる狙いがあった。実際に新人達によって艦内に持ち込まれたヤマトは重力発生装置を破壊され、ろくに防御できないまま戦闘空母艦載機の攻撃に晒されるが、宇宙ボタル防護処理をしていなかったため戦闘空母も攻撃不能になり撤退した。

兵器・関連技術
遊星爆弾
瞬間物質移送器
自軍の戦闘機や戦闘艦艇をワープを可能にさせる装置。これを利用した奇襲戦法は、デスラー戦法と呼ばれるようになった。
反射衛星砲
反射衛星
デスラー機雷
デスラー砲
デスラー艦に搭載されている艦載兵器。
ドリルミサイル
超大型ミサイル
冥王星基地に配備されていた全長1000m、直径500mのつづみ弾のような形をしたミサイル。普段は地中のミサイルサイロ収納されており、発射する時だけ地上に迫り上がる。『宇宙戦艦ヤマト』3話で試射を兼ねて1発が地球にいるヤマトに向けて発射されるが、主砲の一斉射撃で撃破される。その後、7話で冥王星基地に接近したヤマトに数発撃ち込まれ、ほとんどが両舷側ミサイルやパルスレーザー砲で破壊されるが、爆発した1発の破片がヤマトにぶつかり、艦尾を損傷させた。
多弾頭ミサイル
金砕棒のような外観をしたミサイル。トゲの部分が弾頭になっており、強磁性フェライトを撒き散らす。大マゼラン星雲に到達したヤマトにガミラス星から発射され、強磁性フェライトによってレーダー機能を奪うと共に、マグネット発振機で、ヤマトをガミラス星に引きずり込む役目もあった。
天井ミサイル
『宇宙戦艦ヤマト』24話登場。ガミラス星の天井都市のビルそのものがミサイルになっており、ネジを外すように回転にしながら発射される。火山活動を誘発させたヤマトにデスラーが攻撃を命令するが、ヤマトに回避されたり、天井の崩壊により発射されない状態で落下するなどして、地上都市への誤爆や火山口に入り込んで火山活動をより活発化させ、結果的にガミラス星の寿命を縮める形になった。
超磁力バリヤー
『宇宙戦艦ヤマト』12話で登場した宇宙間バリアー。艦艇がこの中に入ると速力が下がり、やがて停止してしまう。デスラーはアルファ星の方向だけわざとバリアーを貼らず、アルファ星とガス生命体、ミサイル攻撃でヤマトを包囲しようとするが、沖田の策により逃げられてしまう。
宇宙要塞13号(宇宙要塞島)
緑色でサツマイモのような外観をしている楕円形の宇宙要塞の13号機。全長は約1kmで厚さは約300m[2]。古代は宇宙要塞を「宇宙に浮かぶ巨大な軽石」と例えた。マグネトロンウェーブを発して、あらゆる機械の繋ぎ目を外して分解してしまう。また、対象物の動きを追尾するため避けて通ることは不可能で、逆に対象物を引き寄せる。無数にあるマグネトロンウェーブ発射口は、外部から攻撃を受けると自動的にシャッターが下りてこれを防ぐ仕組みになっているが、逆に内部からの衝撃にも反応してしまう欠点がある。内部は迷路状で、中央には要塞の心臓部のコンピュータがあり、いくつもの管がまとまったような姿をしている。これに近づくのは容易ではなく、侵入者を確認すると防衛システムが働き、床が歪み、触手のようなもので捕らえる。『宇宙戦艦ヤマト』18話で、ヤマトの前に立ちはだかるが、古代と真田の決死隊によって破壊された。その後、ドメルは自分のタバコに火を付けようとして、ライターの火が付かなかったゲールに対し「君のライターも宇宙要塞13号と同じだね」と皮肉った。
武装ロボット
腕の付いた二足歩行型ロボットで、数体が宇宙要塞13号の内部を警備していた。詳しい武装は不明だが、レーザーを発射していた。1体が古代達に襲い掛かるが、真田の銃で破壊された。
リレー衛星
ドメルがヤマトの背後に差し向けた通信衛星で、地球との通信を回復させて地球の惨状を見せることで、乗組員の心をかき乱す狙いがあった。実際に相原義一は精神異常をきたして、宇宙に飛び出してしまうが、偶然リレー衛星に漂着し、通信が回復したことは偶然ではなかったことを悟る。古代が乗るコスモ・ゼロに救出され、相原が操縦桿を握り、機銃掃射して撃破された。
人工太陽
『宇宙戦艦ヤマト』20話登場。太陽のないバラン星のために設置されており、そのため人工太陽自体がバラン星を周る。ドメルはこれを兵器に転用し、バラン星基地を攻撃しようとするヤマトの背後からぶつけ、基地のミサイル攻撃との挟み撃ちを目論むが、ゲールの密告により、デスラー直々に作戦中止を命令され、人工太陽を停止させる。その隙にヤマトの波動砲によって粉砕され、その破片がバラン星に降り注ぎ、バラン星基地を失うことになった。なお、動かす際にはバラン星基地からエネルギー光線が送られ、ドメラーズ3世の光線によって作動していた。
マグネット発振機
ガミラス星表面に設置されていた。8つの磁力放射器を2段4つずつ並べており、多弾頭ミサイルの攻撃で強磁性フェライトに包まれたヤマトをガミラス星内部に引きずり込み、硫酸の海へ叩き落とした。
気圧変圧器
ガミラス星内部の気圧を変化させて、ヤマトに硫酸の雨を降らせた。円盤型の形をしており、空中に浮いていた。
空間監視用宇宙塵
冥王星周辺に配備されていた小型の偵察衛星。可動レンズでヤマトの位置を捉え、常時冥王星基地司令部へ報告した。
磁力線封鎖装置
『宇宙戦艦ヤマト2』12話登場。テレザートの進路上にあった竹輪型空洞惑星をヤマトがドックとして使うのを狙って、タランの指揮により惑星表面に埋め込まれていた。装置が稼動すると、艦艇は動けなくなり、通常速力では脱出不可能。デスラー艦から光線が送られて作動するようになっている。実際にヤマトは空洞惑星を宇宙ボタル除去のために使い、磁力線封鎖装置によって行動不能になるが、新米俵太のアイディアにより重力アンカーを切って波動砲の反動で脱出した。

2009年02月04日

清水氏(しみずし、しみずうじ)は日本の氏族

清水氏(しみずし、しみずうじ)は日本の氏族。主なものとして次の流れがある。
ヨツバ コルヒチ モネ しおざけ ネルガ ポッド あめりか フレーズ めいわ ラッピ ビンカミン ハザード ソロモン サブライ イシミカ ナシ ティング トラス プライス インチ ネオン コスト ミラショーン レコード カカオマス 白い微笑 ハンドメイド チェンジ Sロガー レンディー パネル 霜の花 レモン テレワ スター ラオオ チュニス ナビラメ きょくし ぽろり モデラート レンジ はさま ハマメリス プログラ ルフィ アゲート フクジ トリッキー マツバ

備中国国人で、後に長州藩士となった難波氏族又は平姓の一族は、備中清水氏
伊豆国国人で、後北条氏の家臣となった藤姓清水氏の一族は、伊豆清水氏
出羽国国人で、清和源氏斯波氏流最上氏の一族は、出羽清水氏
美濃国国人で、清和源氏多田氏流山県氏の一族は、美濃清水氏

備中清水氏
備中国の国人で、出自については昔から諸説あるが、古代に備前国児島郡に赴任した葛城山田直瑞子の末裔である「田使(たつかい)」が本姓である。備前・備中の難波氏の一族である。長州に移った清水家の史料では「平」姓としているが、これは具体的には平清盛の孫平維盛の子孫としており全く信用できない。江戸時代に入って創作されたと見るべきである。元の居城は備中清水城(岡山県総社市井手)で、後に備中高松城。

戦国時代初期の清水宗則(備後守)は備中国の国人・石川久式(左衛門尉。「久孝」というのは長州に移った清水氏の家系図に出ている名だが明らかな誤伝)に従属した。清水宗則には3人の息子がおり、長男は清水宗知(六郎兵衛、左近将監、備後守、入道月清)、次男は清水宗治(長左衛門)、三男は難波宗忠(田兵衛、「伝兵衛」は誤伝である。)。

1574年、備中の戦国大名三村家の重臣だった主家の石川家が毛利家により滅ぼされた際、清水家は石川家から離反して毛利家の小早川隆景に味方し、その功績により石川久式の出城だった備中高松城を預けられた。なお、「石川久孝」が跡取りがないまま亡くなった際に清水宗治が政敵長谷川掃部を討って備中高松城主になったというのは江戸時代の創作話であり事実ではない。

1582年、天下統一を目論む織田信長の家臣・羽柴秀吉が備中国まで侵攻してくる事態となった。前年には山陰の要衝・鳥取城が落城し、城将吉川経家らが自害に追い込まれていた。この山陽道の要衝・備中高松城を守る清水宗治・月清兄弟は奮戦するも、秀吉の水攻めという奇策により、最終的には将兵の助命を条件に自害して果てた。

宗治の息子は3人おり、長男(但し庶子)の清水宗之は1600年の関ヶ原の戦いの前哨戦の安濃津城攻防戦で討死し、次男の清水景治が跡を継いだ。

清水景治は防長移封後の毛利氏の財政難に対して、益田元祥とともに財政再建に尽くして活躍した。清水家は長州藩寄組として幕末まで続いた。

清水景治の子孫に22歳で長州藩の家老となり、禁門の変の責任を取って1864年に自害した清水清太郎親知が出る。息子の死後、父の清水親春が再度家督を継ぎ、明治維新で活躍したため、明治時代には男爵の爵位を与えられた。

伊豆清水氏
伊豆清水氏は、伊勢新九郎盛時の家臣として伊豆国に下ったとも、元々伊豆の土豪とも言われている。それ以前の系図は不明。伊豆清水氏の初代の名は不明であるが、2代目の清水綱吉も北条氏に仕えて伊豆国の支配や、戦場での働きで、勢力拡大に貢献したものと思われる。3代目となる清水康英は北条氏の重臣して活動し、伊豆国では最大の知行を得るほどにまで成長した。

しかし、時代の流れが北条氏も、それに従う清水氏も飲み込み、1590年には豊臣秀吉の小田原征伐が開始された。康英は伊豆国の下田城に籠城し2ヶ月に渡る籠城戦を行うが、最終的には開城して隠居し、1591年に伊豆で病死した。嫡子の清水政勝は小田原城で籠城した後に降伏して、結城秀康に仕え、子孫は松平光長に仕えて江戸時代も続いた。

出羽清水氏
出羽清水氏は清和源氏足利氏の一門・斯波氏の一族最上氏の分家筋にあたる。1474年、斯波兼頼の曾孫の成沢満久が最上地方へ進出し、その後に大蔵村に清水城を築いて居城とし、それ以降清水氏を名乗った。

清水氏の5代目当主・清水義高が、本合海の戦いで武藤義増の軍勢と戦って討死。その跡は清水義氏が継いだ。義氏には男子が無かったため、一族でもあり、本家筋の最上義光の息子を養子として迎えた。これが清水氏7代目当主・清水義親である。清水義親は清水氏の養子となる以前に、豊臣家に近習として仕えていたことがあり、その縁で豊臣秀頼とも交流があった。これが後年の悲劇の一因となる。

1613年、徳川家康と豊臣秀頼との手切れが決定的になると、最上家は徳川家康ら東軍諸将から、清水義親と豊臣家との内通を疑われてしまう。最上義光の死後、その家督を継いだ実兄の最上家親は、疑いを晴らすために弟である清水義親の追討を決断し、翌1614年に清水城を攻撃して落城させた。清水義親は、13歳であった嫡子の清水義継ともども切腹させられ、ここに清水家は滅亡した。

清水 義親(しみず よしちか、1582年(天正10年) - 1614年11月14日(慶長19年10月13日))は、安土桃山時代・江戸時代の武将。出羽国の戦国大名最上義光の三男。最上家親の弟。清水義継の父。

最上氏の一族であった清水義氏の養子となり、2万1300石を領した。豊臣氏の人質となった経緯から豊臣秀頼と交流があった。関ヶ原の戦いでは、上杉軍の追撃の総大将となる。1614年の大坂冬の陣の直前に、大坂方へ通じている嫌疑をかけられ、兄・家親に居城の清水城を攻められて、嫡子・義継と共に自害を余儀なくされた。

義親は豊臣家に人質になったのに対し、家親は徳川家に仕えた立場にあり、兄弟仲はあまり良くなかったとされる。これが家親が義親を攻めた遠因とも考えられる。

清水城(しみずじょう)は、山形県最上郡大蔵村清水、比良にあった城。形式は平山城である

文明10年(1476年)築城である。斯波兼頼のひ孫にあたる最上氏一門の成沢満久は、文明8年(1474年)に最上地方攻略のため、大蔵村新田(現白須賀)に楯を築いてこの地に進出。その2年後、最上川を見下ろす高台に清水城を築城した。以後、清水氏を名乗り、清水城は最上地方を巡る武藤氏、小野寺氏との戦乱の最前線として、また、最上地方南部の領国経営の中心として発展した。

清水の地は、最上川中流域の中心都市であり、日本海航路から最上川をさかのぼり、山形県内陸へと物資を運ぶための重要な中継基地でもあった。そのため、武藤氏にとっても手に入れたい重要な拠点であり、何度も武藤勢の攻撃を受け、逆に、最上氏の庄内進出の足がかりともなった。

清水氏5代の清水義高が、本合海(現新庄市本合海)の戦いで武藤義増の軍勢と戦って討ち死にし、その跡を継いだ6代清水義氏が継いだ。義氏には男子がなく、娘が婿養子を迎えるはずであったが、最上義光の三男を養子として迎え入ることとなった。こうして迎え入れられた義親が、7代清水義親となる。義氏の娘・清水姫は20歳で正妻と死別していた義光の側室として嫁いだ。なお、大蔵村の由来は、清水義親が大蔵大輔であったことに由来する。しかし、清水義親は清水氏の養子となる以前に、豊臣家に近習として仕えていたことがあり、その縁で豊臣秀頼とも交わっていた。これが後年に悲劇につながる。

慶長18年(1613年)、徳川家康と豊臣秀頼との対立が決定的になると、最上家は、密書により徳川家康ら東軍諸将から清水義親と豊臣家との内通を疑われてしまう。最上義光の死後、その家督を継いだ実兄の最上家親は、疑いを晴らすために弟である清水義親の追討を決断し、翌慶長19年(1614年)に清水城を攻めて落城させる。清水義親は、13歳であった嫡子義継ともども切腹させられ、ここに清水家は滅亡、清水城は廃城となった。

2009年01月21日

水泳(すいえい)

水泳(すいえい)は、船などの乗り物を使わず、身体のみで水中や水面を移動すること、またはその技術をいう。古くは武術の1つ(水術)ともされたが、現在では一般にスポーツやレクリエーションとして行われる。

人間は本来、水中での生活に適応していないため、泳げるようになるには訓練が必要となる。競技としての水泳は通常プールで行なわれるが、レクリエーションとしては河川・湖・海なども利用される。海で泳ぐ場合は特に海水浴といい、健康法の1種ともされた。泳ぎができない人間のことを、日本語では俗に「カナヅチ」という(槌参照)。

水泳は全身の筋肉を使った運動であり、水圧によるマッサージ効果によって全身の血行が促進されることから、健康維持に有効な運動として注目されている。また、浮力によって重力による負担が軽減されるため、ジョギングなどで起きやすいヒザなどへの故障が少ないことから、リハビリテーションとしても積極的に活用されている。

オリンピックなどで「水泳」という場合は、競泳、飛び込み、水球、シンクロナイズドスイミングの4種目をさす

競泳は定められた距離を泳ぎきるのにかかる時間を競うもので、自由形(通常はクロール、略称Fr)、背泳ぎ(略称BaまたはBc)、平泳ぎ(略称Br)、バタフライ(略称BuまたはFly)の4つの泳ぎ方(泳法)と、4つを順番に全て行う個人メドレー(略称IM)、また4人で交代に泳ぐリレーに分けられる。距離も様々なものがあり、最短 25m から最長 1500m まで存在する。使用されるプールには片道 50m の長水路と、片道 25m の短水路があり、公式にはそれぞれ別の記録として扱われる。泳ぐスタイルやスタート、ターン、リレーの引継ぎなどには細かい規定が定められており、違反すると失格となる。

飛び込みは高い位置にある台から水面に向かって飛び込み、その過程の演技などを競う競技である。板飛込みと高飛込みに大別され、それぞれ高さによって数種目に分けられる。

水球は7名ずつ2チームで行う球技で、相手のゴールにボールを入れることを目的とするものである。プールの底に足をつけてボールを扱うことは反則であるため、常に立ち泳ぎをしながらゲームを行う。
月のかげ ラビオリ サターン ドレス りんね テクノ ブッシュ スパイダ オーバー ブイエ ふたり星 天下り カウント ターボト リフォ プロライツ ロデオ ワーク ション 雲水 会津か シルバ カマーバ バッファー デビット ガボンド ジャップ ティー あの町 スペア ポール ブイトール ローリング オートミー トルマ ビュー ワッフ セサミ ナビマス モチの木 へんぱ シャーマ アカウンテ ストーク ナレータ しちか ブリックス タンパ アカハラ ロケハン

シンクロナイズドスイミングは個人あるいは団体で、水中での演技を競うものである。女子のみが行われることが多いが、2001年公開の映画『ウォーターボーイズ』のヒットにより「男のシンクロ」も知られるようになった。

日本泳法は技の完成度を競う公式大会として、毎年夏に日本泳法大会が行われる。 日本水泳連盟公認12流派が集う全国大会である。

以上のほか、水泳が行われる競技としては近代五種やトライアスロン、オープンウォータースイミングがある。また、サーフィンやライフセービング、スキューバダイビングなど、水泳とかかわりの深いスポーツは多い。

装備
一般に、水泳を行う際は、水着を着用し、場合によっては水泳帽子やゴーグルを使用する。他に、抵抗を増し推進力をつけるためのパドルやフィン、浮力を得るためのビート板やプルブイなどを使うことも多い。また、フィンスイミングなどではシュノーケルやアクアラングなどを使用することもある。

教育
学校などでは体育の授業の一環として水泳が行われることもある。また民間の商業施設としてスイミングスクールが数多く開設されており、日本においては水泳競技の有力選手を輩出する組織となっている。

また、競技としてだけではなく、水難事故に備えた着衣水泳の訓練なども行われている。また、日本古来の泳ぎかた(日本泳法・古式泳法)の伝承、海での遠泳や寒中水泳なども教育や訓練の一環として行われている。