国鉄は1947年(昭和22年)以降、電車に関する新技術の開発に次々と取り組んだ。しかし、その当時に生産が行われていた国鉄電車は63系1系列のみであり、メーカーから続々と送り出される63系電車は、新しい技術の試験用車両としても利用されることになった。
台車
63系の標準的な台車は当初、戦前からの鉄道省標準型である鋳鋼製軸箱部と型鋼による側枠を組み合わせたペンシルバニア形軸ばね式台車のDT12(TR25)であった[6]。
太平洋戦争後、国内のベアリング工業が軍需から民需に転換したのを機に、鉄道業界にもローラーベアリングの導入が図られる。これには起動抵抗や車軸の発熱を減少させ、メンテナンス性を改善できるメリットがあった[7]。これに際し、DT12のプレーンベアリングをローラーベアリングに変更したDT13が開発される。以後このタイプが63系の標準台車となった。
また、一部のモハ63形には試験的に、扶桑金属(旧・住友製鋼所、現在の住友金属工業)製の鋳鋼台車が用いられた。ウイングバネ式のDT14[8]と、軸バネ式のDT15があったが、両者は多くの部品を共用している。DT15は、80系電車に用いられた高速型台車であるDT16の原型となった。
主電動機 [編集]
当初、戦前からの標準型であるMT30[9]を搭載したが、1948年(昭和23年)頃から改良型のMT40を経てMT40A・B[10]に移行している。これらは端子電圧差[11]を考慮するとMT30とほとんど差がないが、軸受にローラーベアリングを採用し、独立した冷却ダクトを持つMT40の方が、ロングランや過負荷へのゆとりがあった。のちに主電動機をMT30からMT40に交換した車両もあり、これによって捻出されたMT30で戦前型国電の出力増強が為された事例もあった。
MT40系はその後、80系電車、70系電車、72系電車の各系列にも用いられ、湘南電車の、ひいては電車列車の時代の到来の原動力となった。国鉄電車用の釣り掛け駆動主電動機の最後を飾った、優秀なモーターである。
パンタグラフ [編集]
パンタグラフについては、戦前と同等のトラス構造を用いた良質な標準型であったPS11はほとんど用いられず、戦中新たに開発された簡易型であるPS13が搭載された。内側にトラスのない枠だけのラーメン構造で、下半分の部材には通常の鋼管を使わず、鋼板を折り曲げて部材を構成していた。
主軸のベアリングを平軸受とするなど極端に簡素化した粗末な構造で、当初は強度不足による歪みも頻発した。しかし、架線への追随性能に大きな問題はなく、広範に用いられた。旧形電車はもとより、新性能電車といわれる101系電車や151系電車の初期製造グループでさえ、登場当初にはこのパンタグラフを搭載していたほどである[12]。
制御装置 [編集]
63系は、戦前からの標準型であった電空カム軸制御器[13]のCS5を搭載していた。しかし一部の63系は、構造が簡素で軽量となった試作電動カム軸制御器のテストに用いられた。この結果、電動カム軸式のCS10が正式に採用され、80系や72系などに搭載された。このCS10では直並列切り替え時に牽引力の低下がほぼ発生しない「橋絡わたり」接続が国鉄電車用制式制御器では初めて採用[14]され、加速時の衝動低減に大きな効果を発揮した。
ジュラルミン電車 [編集]
1946年に、川崎車輌(現在の川崎重工業)で作られた63系のうち6両(モハ63900?902、サハ78200?202)が、外板をジュラルミン張りに変更して製作された。これは日本で初めて軽合金製外板を車体に用いた電車である。終戦による航空機需要の途絶により、航空機用材料のジュラルミンが余っていたことから試験的に製作されたものであるが、骨組みは普通鋼を用いている。なお、これらは内装材にもジュラルミンを使用していた(床板と荷物棚は木製、座席は布張り)。
外観は溶接構造ではなく戦前型電車のようなリベット留め[15]とし、クリアーの塗料を塗っただけの銀色で、アクセントに細い緑帯が入った。照明に蛍光灯を試験採用したため車内も明るく、「ジュラ電」と呼ばれて注目を集めた。[1]
しかし、もともと腐食しやすいジュラルミン[16]に加え、他の63系同様に粗悪な絶縁素材を使っていたために電装品からの漏電による電蝕症状が進行し、数年程度使った時点で車体が著しく劣化した[17]。このため1950年には車体の塗装が施されたものの、1954年(昭和29年)に、72系への形式再編に際し、72系全金属化の試作も兼ねて6両とも試作全金属形車体(普通鋼外板)に改造された。
63系電車の私鉄導入 [編集]
太平洋戦争中の酷使や戦災の結果、多数の電車が損耗し、一方で買い出し客を中心に輸送需要が増加したことで、戦後の私鉄各社は著しい輸送力不足に苦しんだ。
1946年から、運輸省(鉄道軌道統制会。のち鉄道車輌統制会)の統制の下、大手私鉄に運輸省標準型電車としてモハ63形を割当供給し、その代わりに中小型車を地方中小私鉄に譲渡(供出)させることになった。その際、モハ63形電車の割当てを受けたのは東武鉄道、東京急行電鉄(小田原線→現・小田急電鉄、厚木線→現・相模鉄道)、名古屋鉄道、近畿日本鉄道(南海線→現・南海電気鉄道)、山陽電気鉄道の各社線[18]で、1948年までに合計120両が統制会の手を通じて各社に供給された。
統制会を通して割り当てられた63形電車は、名目上、国鉄が一括発注し、各私鉄に割り当てる形をとったため国鉄番号を持つが、国鉄に車籍編入されたことはない。それ以外に直接私鉄が発注し、国鉄番号のない車両が計4両あった。
東武鉄道
統制会より40両の割り当てを受け(内2両は国鉄番号なし)、6300系(1952年に7300系に改称)の呼称を与えられる。のち名古屋鉄道から14両譲受。1959年(昭和34年)以降新造車体への載せ替え改造を受けた。
東京急行電鉄
統制会より20両が割り当てられ[19]、1800形となり、小田原線(→小田急電鉄)に14両、厚木線(→相模鉄道)に6両が投入された。厚木線配置の車両が相模鉄道に移籍したのち、名古屋鉄道から6両を譲受した。1957年以降内外装の張り替え工事を受けて形態を一新、のち秩父鉄道に譲渡され800形として使用されたが、1990年までに廃車されている。
名古屋鉄道
統制会より20両が割り当てられ、3700系(初代)となるも、名古屋本線に当時存在した急カーブ(枇杷島橋梁付近)が通過できず、運行可能な区間に制約(栄生以東に限定)があったため十分に活用できなかった。この結果、従来車の車両限界に合わせた運輸省規格型車両の割当て(3800系20両。1954年までに71両新製)を優先的に受けて、その見返りとして1948年に同車を東武鉄道(14両)と小田急電鉄(6両)へ譲渡した。なお、名鉄線に独自の20m4扉車が登場したのはそれから30年以上も後の1979年(地下鉄乗入れ車)のことであり、本線系では未だに20m4扉車を使用していない。
近畿日本鉄道
統制会より20両が割り当てられた。後に全て南海電鉄に承継され、モハ1501形となった。全車近畿車輛製で、自社の親会社への納入ということで、社章と凝った造りのシャンデリア風の車内灯が装備され(63系は通常裸電球装備である)、通風器も63形標準のグローブ型ではなくガーランド型2列とするなどの特別仕様となった。600Vの大電流に対応し、また在来車との混用の必要性から通常のCS5ではなく、ALF単位スイッチ制御器を装備した。1959年以降、一部が制御車に改造され、使用機器が1521系とED5201形電気機関車に引き継がれている。また、貫通幌が付けられた車両もある。晩年は、本線の各停や天王寺支線、多奈川支線の運行に使われた。現在は全車廃車となっている。
山陽電気鉄道
統制会から20両が割り当てられた。63系唯一の標準軌仕様。初期車6両は剥き出しの天井のままであったが、それ以降の14両は天井にジュラルミン板を張って納入され、原番号が63800番台であったことから800形800?819となる(のち700形700?719に改称)。当時の山陽電鉄には神戸市内に併用軌道区間(路面走行区間)があり、本形式も1968年(昭和43年)の神戸高速鉄道開業まで道路上を走行した。20m級の大型電車が併用軌道を走行したのは前代未聞のケース[20]であった。のち1957年(昭和32年)の西代車庫火災による焼損をきっかけとした車体新造による2700形への更新、もしくはその構体を生かしたままでの更新改造を受けたが、現在ではいずれも全車廃車となっている。
63系は、当時日本最大級の電車の一つであった。が、上記の私鉄各社の内、戦前から63系同等の大型・大出力電車を導入していたのは南海のみで、その他の鉄道は、導入路線の地上施設の規格向上(カーブの緩和、プラットホーム幅削減や障害物撤去、架線電圧の昇圧、あるいは変電所の増強など)を行わなければ63系を走らせることができなかった。
低規格路線の多かった名古屋鉄道は早期に63系の使用を断念したが、その他各社は苦心の末に63系を走行させる条件を整えた。その結果、著しい輸送力増強が実現されることになる。
特に63系の大量導入で実績を上げた東武鉄道は、1953年(昭和28年)に63系(7300系)同様の4ドア20m車体を持つ大型通勤電車7800系(当初7330系)を開発する。これは1961年(昭和36年)までに164両も製作されて、高度成長期初期の通勤輸送の主力となった。以後東武鉄道では、主力通勤電車は20m4ドア車体を基本とするようになる。
また小田急・南海では1960年代以降本格的に20m4扉車体の通勤電車を開発し、以後主力とした。
結果として63系電車の私鉄割り当ては、ラッシュ輸送における「扉数の多い大型電車」の優位性を各鉄道会社に認識させるきっかけとなったと言える。また、63系が走行可能となった路線では同様な大型電車が容易に運転可能となり、長期的に見ても輸送力増強に大きくプラスとなった。もっとも、戦災で在籍車を多数喪ったために窮余の策として本形式を受け入れた山陽電鉄は、63系では明らかに輸送力過大であり、以後多扉20m車を導入していない[21]。
また、間接的に63系を導入することになった鉄道会社としては、以下の各社がある。
西武鉄道 - 1953年に63系の事故廃車3両を国鉄から譲受、1956年(昭和31年)に同一仕様1両を自社製造。詳細は西武401系電車を参照。
相模鉄道 - 太平洋戦争後の一時期、東急小田原線に運行委託していた経緯から、小田急経由で7両を譲受した。これらは3000系の一部となり、のちに車体更新が実施された。また、7両のうち1両は事故車であった。
この2社も20m級の大型電車が入線可能となり、西武鉄道は1957年(昭和32年)から20m3扉車体の電車を標準とした。相模鉄道では1961年以降、また西武鉄道は1977年(昭和52年)以降、いずれも20m4扉車体の電車を主力にするようになった。
このような経緯もあり、20m・片側4扉構造の車体は、国鉄(JR)のみならず大手私鉄通勤電車の標準構造となっている。
なお、これ以外に1948年には、三井三池炭鉱専用鉄道(福岡県大牟田市・熊本県荒尾市)に63形と同形の通勤客車が5両(ホハ201?205)投入された。専用線車両であるため炭鉱関係者・家族の通勤通学輸送に限定され、一般営業運転には用いられなかったが、長期に渡って原形を保ち、1980年代に至っても、更新改造以前の63系に酷似した形態を残した貴重な存在であった。1984年(昭和59年)、従業員輸送が廃止になるまで使用された。
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